ダンテの「神曲<地獄篇>」をベースにした、プッチーニ作曲のイタリアオペラ「ジャンニ・スキッキ」と、三遊亭圓朝の落語「死神」さらにはグリム童話もルーツに持つ、池辺晋一郎作曲の日本オペラ「魅惑の美女はデスゴッデス!」。一見まったく別物かに思えるふたつのオペラに、“欲望”という人間の本質を見出し、喜劇でありながらも見応えのある《重喜劇》としてひとつの世界観でつくりあげる本公演は、日本オペラ振興会だからこそ実現できる、実に豪華なダブルビル。40年間の歩みを振り返り、未来を見据え、今だからこそ音楽の力を届けたい。
今最も旬なアーティストのリアルな声や、話題の公演に関する臨場感あるエピソードなど、オペラがもっと楽しめること請け合いの情報をお届けするコーナー「CiaOpera!」。第45弾は、2021年4月24日(土)4月25日(日)に、日本オペラ振興会設立40周年を記念して藤原歌劇団・日本オペラ協会が共同で行う2本立ての同時公演「魅惑の美女はデスゴッデス!」「ジャンニ・スキッキ」、各演目にご出演の家田紀子さん、牧野正人さんが登場。2つの作品が同時上演される意義や作品の見どころ、40年間の歴史における貴重なエピソードの数々をお話しくださいました。
イタリアと日本、ふたつの《喜劇》。描き出される人間の本質が見どころ。
ー今回は、2021年4月24日(土)・25日(日)、日本オペラ振興会設立40周年を記念した藤原歌劇団・日本オペラ協会による同時公演「魅惑の美女はデスゴッデス!」「ジャンニ・スキッキ」のダブルビル公演にて、「ジャンニ・スキッキ」からは牧野正人さん、「魅惑の美女はデスゴッデス!」からは家田紀子さんにお越しいただいています。それぞれ、今のお気持ちをお聞かせ願えますでしょうか?
「ジャンニ・スキッキ」は長らくやってみたい作品でありながら、残念ながらこれまでは演目自体にあまりご縁がなく。すごく昔、グッチョという役を演じて以来です。なので、タイトルロールのジャンニ・スキッキ役、実は初役なのです。昔から“やりたいな”とは思っていましたが、いくら自分がやりたくてもオファーをいただかなければご縁もないので、やっと巡り会えたという気持ちはあります。ただ、5、6年前になりますが、個人的に付き合いのある沖縄のオペラ団体からのお声がけで、なんとオペラの“演出家”としてのお仕事する機会が何度かありまして。「ラ・ボエーム」「フィガロの結婚」などいろいろ演出したなかに、「修道女アンジェリカ」との2本立てで「ジャンニ・スキッキ」もあったのです。やはり演出をするにあたって隅々まで勉強しなければならず、今思えばそれがこの作品へとつながっていたのかもしれません。なので、役としては初めてなのですが、いざ臨んでみたら「あ、自分はこの作品についてすでに分かっている部分が多いな」と感じました。いつもは、自分の役の勉強から始めてだんだんと相手役やオペラの全体像へと理解を広げていくのですが、今回はどちらかというと全体像の方を先にある程度知っていて、そこから自分の役にフォーカスしていくという進め方で、新鮮です。ずっと望んでいた役に、それも岩田達宗さんの演出によるプロダクションで出演できるということで、本当に胸が高鳴っています。
ー思い入れのある「ジャンニ・スキッキ」、楽しみです!一方で、「魅惑の美女はデスゴッデス!」に出演される家田さん、作品に臨むにあたって今どんなことを感じていらっしゃいますか?
「日本オペラ」は前もってどんな作品なのか資料が少なく、ピアノスコアから一音一音探っていきます。台詞を読み、音にはめ込みどんな役なのか、想像を巡らせます。立ち稽古で想像していた人間像がはっきりとして、ピアノでの稽古からオケ合わせになると、更に作品が立体的になる。その過程がとても面白いのです。作品そのものについては、この「魅惑の美女はデスゴッデス!」というオペラの元になっているのは幕末期から明治期にかけて活躍した初代 三遊亭圓朝が創作した「死神」という落語なのですが、それはグリム童話の「死神の名づけ親」がルーツだと知りました。本作の台本は故・今村昌平氏ですが、今村昌平といえばカンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞した映画監督・脚本家ですよね。私も、受賞作品のひとつである『楢山節考』を観たのですが、出演した女優さんが役づくりのために歯を削ったというエピソードは有名ですが、作品に賭けるその女優魂は見習いたいと思いました。また、演出プランのお話しで岩田さんが、今村昌平の描く世界は《重喜劇》だとおっしゃったことも印象的で・・・。喜劇の中には、軽妙なものばかりではなく、人間の欲望だとか命がけの闘争といったものを生々しくずっしりと描いた重いものがあり、それが《重喜劇》というのだそうです。
ー「魅惑の美女はデスゴッデス!」は、あの今村昌平氏による《重喜劇》なのですね!喜劇といえど、人間の本質が鋭く描き出された作品といえますね。
そうなのです。今回私はオペラのお稽古をしているというよりも映画づくりをしている感覚です。今村昌平台本は台詞も激しくリアルです。それを作曲家の池辺晋一郎先生の流麗かつウイットに富んだ音楽が、ドロドロとした人間の欲望、強烈な執着心など、重い内容を見事に緩和しています。このコントラスとバランスがあってこそ、《重喜劇》を胸の奥底で受け止められるのかなと思いますね。
ーなるほど、オペラならではの魅力もあるのですね。今回、この2作品における共通点はどんなところでしょうか?
「魅惑の美女はデスゴッデス!」は、前出のように元はフランス革命以降のヨーロッパ・ドイツで成立したグリム童話で、そこから「死神」という落語作品になり、オペラへと変遷を辿りました。(※諸説あり)“金”のために死神に魂を預けた男と、今村昌平の世界の艶っぽい美女の死神の哀れな“愛”。「ジャンニ・スキッキ」も、ベースとなっているのはダンテの「神曲<地獄編>」という13〜14世紀イタリアの作品。相続問題で遺産の“金”を奪い合う大人たちと純粋な若い“愛”。その“金”と“愛”という人間が持つ根源的本性を問いかけている、共通する2作品を40周年に持ってくるなんて。日本オペラ協会と藤原歌劇団というふたつのブランドを持っている日本オペラ振興会ならではの、なんとも豪華な公演だと思います。
そうですよね。これは観てのお楽しみな部分もあるので多くは語れませんが、一見まったく別のオペラに見えるこの2作品に、目で見てわかる共通要素があるのです。私も演出というものを経験したので、舞台転換としての面でも金銭的な面でもこういった二本立ての作品でそれぞれまったく別世界の舞台をつくるということはないと理解できます。けれど、今回のこのイタリアオペラと日本オペラに共通要素を持たせることについて、最初は「どうなる!?」と思っていましたが、今では岩田演出の一貫した世界づくりとして大変納得しています。
「ジャンニ・スキッキ」の様子なども伺っていて、「あぁ、これは岩田さん流の「ジャンニ・スキッキ」をつくろうとしているのだな」と改めて感じまして、ふたつの作品を共通した世界観で楽しめる、特別な公演になるに違いないと確信しています。
ーまさに、他に類を見ない公演ですね!
今だからこそ、音楽の力をお客様の心へ届け、進み続けなくては。
ーふたつの作品の対比について、もう少し詳しく伺えますか?
はい。今回ふたつの作品を通して描かれている人間の「欲」というのは、古今東西共通のもので、誰にでもあって、でもそれって醜いことではなくそれこそがありのままの人間であり崇高なのだ、という最終的なテーマにもっていくことが、今回の狙いだと感じています。
ーなるほど。そしてそれこそが《重喜劇》なのですね。
そうですね。その言葉を知ってから、岩田さんが本作をどのように演出されるのかより一層楽しみになり、自分自身でもストライクゾーンを広げて「このような要望が来るのではないか」「こんな世界観を描かれるのではないか」と想像するのですが、岩田さんの演出はそれを超えてくるところがすごいのです。今回、岩田さんの要求がいつも以上に“人間くさい”し、歌い手に舞台役者として求める部分が大きいように感じられます。そして、同じ角度で松下京介さんが指揮で音楽を作る。充実した舞台が出来上がること間違いなしですね。
たとえば「ジャンニ・スキッキ」に登場するフィレンツェの貴族の館を忠実に再現するというような、リアリティの世界が重要視される場合もあるかもしれません。今回、舞台装置はかなり抽象的です。けれど、オペラの本質は「人間を描く」ということ。だから、人間をちゃんと描けていれば、舞台装置がリアルでも抽象的でも、セットがなかったとしても、オペラとしては成り立つと思うのです。今回の舞台、幕が開いて最初にパッと見たときは「ん?」と感じるお客様もいらっしゃるかもしれませんが、話が進み出したら、ふたつの話の時代も場所もまったく違うはずなのに、全然違和感がなくなると思います。それだけ、人の本質をきちんと描き出せていることが魅力ですよね。
そうですね。「魅惑の美女はデスゴッデス!」は、ザルツブルクテレビオペラ祭の優秀賞受賞作品で、映像のための作品でしょう。けれど、牧野さんがおっしゃるように人間としての本質が描けていたら、映像による演出効果に頼らなくても作品の素晴らしさを伝えることができるでしょうね。「ジャンニ・スキッキ」にしても、グッと人間にフォーカスした世界観によって、より具体的な空間が見えてくるかもしれないですし。お客様にとっては、イメージを膨らませる高度な鑑賞となりますが、そのぶん想像の自由は広がりますよね。
ー見応えあるオペラ体験ができそうですね。やはり、それは劇場で生の舞台を観てこそ味わえるものですよね。今のご時世、なかなか勇気がいるというお客様もいらっしゃるかもしれませんが、感染防止対策もしっかりとされていますし、おふたりもやはり直接表現を届けるというところに意義を感じていらっしゃるのではないでしょうか。
本当にそうですね。今、私たちはオンラインという方法も獲得でき、それが便利なことはわかりましたが、やはりオペラに限らず舞台芸術には「同じ空間を共有し、共鳴する」という点に本質があるような気がします。
空間も、空気も、それを共有するということは、舞台と客席という距離はあってもある意味では触れ合っているのと同じですよね。もちろん命の危険があってはいけないと思うけれど、このコロナ禍という状況から、私たちは大切なものも教わったのかもしれません。私は今回、本当に自分の存在意義から考えさせられました。もう、ほとんど台所にいて、時間が余っているからちょっと丁寧に料理なんかしながら。今年は東日本大震災から10年ですが、あのときも日本が「大変なことになった」という空気に包まれたなかで、我々は何を思ったかって、人々の心を少しでも明るくしたいと現地に行って歌ったり踊ったり。出番があると思えたんです。ところが今回、このような大変な世の中にあって、出番がまったくなくなってしまった。歌ってはいけないし、人と会ってはいけないし。オンラインという手段も生まれましたが、それでもかなり根本から自分を見つめ直さざるをえなくなりました。
3・11の話が出たので、お話させてください。私はあの2011年の11月に、文化庁による事業の一環で、藤原歌劇団「カルメン」の公演の為に岩手県の南三陸町、宮城県石巻市、仙台市に行く事が事前に決まっていたのです。ところが大震災が起きて、果たして行けるかどうかわからないという状況になり直前まで様子を見ていたのですが、「どうにか行けるかもしれない。とにかく公演をやろう」と現地に向かいました。町に入って、言葉を失いました。テレビで報道されているそのままの風景がまだ残っていて、でも海だけは何事もなかったかのように寄せては返して。私の叔母が石巻市にいて公演に来てくれたのですが、涙を流して「お化粧をすることと、歌うことを忘れていたわ。紀子ちゃん、本当にありがとう」と言われたことが忘れられません。そのあと私は宮城県の亘理町へ仮設住宅での慰問コンサートに行きましたが、皆様と一緒に歌うコーナーでは「久しぶりに歌ったわ」「声が出なくなっていることに驚いた」「大好きな歌のCDも全部なくなってしまった。でも、今日は楽しかった。ありがとう」という言葉をたくさんいただきました。それが3月から8ヶ月経った11月。悲しみのどん底に陥ってしまったときには、やはり少し待つ必要があるのですね。そして「そろそろ音楽をお届けしても大丈夫だろうか」と考えながら、少しずつ少しずつ動き出して、皆様の心の癒やしになる。今回も、世界中が大変な苦しみに包まれていますけれど、今また少しずつ音楽の力をお届けして、お役に立てるタイミングに来ているのかもしれないと感じます。
世の中がひっくり返るようなことが起こって、人がたくさん亡くなって、その方々を弔う気持ちや、大変な状況を思って慎むという気持ちは、私たちも大切にしたい。けれど、そのような中で自分たちの使命とは何かを考えたとき、やっぱり歌うしかないのだという答えにたどり着くのです。芸事に携わるつらさでもありますが、自分が悲しいと思っていても、舞台では笑わなければいけないし、おどけてみせなければいけない。だけど、世の中が大変だからこそ、逆にすごく必要なことだとも思うのです。とにかく目の前の仕事だけはこなそう。自分が世の中に対してできることだけは、きちっとやろう。それが、今の状況での私たちがやるべきことだと考えています。一度は、足が止まりましたけれどね。
進み続けなければいけませんね。
40年間の歩み、そして未来への想いとは。
ー話は変わり、おふたりは日本オペラ振興会40年の歩みの多くの部分をご存知だと思うのですが、思い出深いエピソードなど伺えますか?
やはり、まずは所属した頃の思い出ですね。以前から「藤原歌劇団に入りたい」と憧れており、1987年10月の「イル・トロヴァトーレ」に合唱で出演させていただくことになったのですが、オペラ歌手育成部も出ていなかったので、何もわからずいきなり現場でした。当時日本オペラ振興会の拠点が大久保にあり、新宿のビル群を見ながら稽古場に通いましたね。その公演は、指揮者アルベルト・ヴェントゥーラ、演出家は粟國安彦、キャストが林康子、マウロ・アウグスティーニ、ジョルジュ・ランベルティ、フィオレンツァ・コッソット、イヴォ・ヴィンコ!錚々たる顔ぶれでした。私の立ち位置がちょうどコッソットのすぐ後ろだったのですが、本番の舞台で、彼女の声が東京文化会館の客席の奥の壁にぶつかって、自分にバンバーンとはね返ってくる感覚はものすごかったですね。そのあと、今度は日本オペラ協会の「袈裟と盛遠」の合唱にも出演させていただきました。桜でいっぱいの舞台が本当に豪華で美しくて、「オペラの舞台ってすごい!」と大道具を見学したものです。しばらく合唱のお仕事を続け、そのうちにオーディションを受けて準団員になり、団員になり。お役をいただきはじめたのは、1989年11月に民音創立25周年記念公演で、小澤征爾さんが指揮したみんおんオペラ「スペードの女王」です。その次に、1992年8月の文化庁青少年芸術劇場で「蝶々夫人」のケイト役をいただきました。ケイトに関しては特に思い出深いエピソードがあります。「蝶々夫人」は合唱でずいぶん芸者の役で出ていましたが、林康子さんの蝶々さんで名古屋国際音楽祭での公演のとき、オケ合わせ、ゲネプロ、本番と日程が連続してしまい、コンディションを保つため林康子さんは「ゲネプロでは、動くけれど声は出さないわ」とおっしゃり、代わりに蝶々さんを歌える歌手を探されたのです。実際、歌える方はいらしたはずですが、たまたま皆さんお仕事が重なっていて、そんな中私は合唱として現場にいましたし蝶々さんを歌えたものですから、芸者の格好で登場しそのままで袖に行き、康子さんの演技に合わせて歌わせていただいたのです。それまでも、公演に合唱で参加していましたが、自分の歌をアピールする機会を、そのとき康子さんがくださったのだなと大変感謝しています。お役をいただけるようになったのは、そこからなので。以来、ずっと康子さんの蝶々さんのアンダースタディとして、勉強させていただきました。
そうだったのですね!私も、「蝶々夫人」で一番最初にシャープレス役をいただいたとき、お相手は林康子さんでした。考えてみたら、30歳そこそこの若造がなんで押しも押されもせぬプリマドンナと一緒に歌うことができたのか、今考えると不思議ですが、幸せなことでしたね。そこからのスタートですから。
林康子さんは世界的なスターでしたけれど、そのような方に本当に愛情深く育てていただきましたよね。ケイトはそのあと何度も歌わせていただきましたし、康子さんのアンダーで蝶々さんもたくさん歌いましたし。「カルメン」のミカエラ役も、幾度も。「ラ・トラヴィアータ」のアンニーナ役ではどれだけ多くのソプラノとご一緒し、看病したことか(笑)。チェドリンス、デヴィーア、ロスト、カッラヴァスト、ミリチョイユ、カッセッロ、アンダーソン、ゲオルギュー、デヴィヌー…世界の“ヴィオレッタ歌い”と呼ばれるソプラノの、幕引きの崩れ落ちるシーンをかぶりつきで観ていたのです。コマ送りのように覚えていますよ。後々私自身がヴィオレッタを歌うときに大変勉強になりましたし、本当に自慢できる経験を日本オペラ振興会でたくさんさせていただきました。
それはすごい!でも本当に、世界の第一線で歌っている歌手がどんどん藤原歌劇団へ歌いに来て、一緒に舞台に乗って。普段できないような経験をさせてもらいましたよね。こういう方たちは忙しいので、日本の稽古に1ヶ月前からなんて来られない。そうすると、稽古はアンダースタディの方と進めて、舞台で初めて本役の方と会うことになる。しかも、それが「セビリャの理髪師」「ラ・チェネレントラ」など、アンサンブル・オペラだったりすると大変なのです。トゥリマルキというバス歌手と共演したときは未だに覚えていますが、私が変な位置に立ってしまったらしくて。といっても演出の通りにやっていたはずなのですが、彼にとってはやりづらかったようで、歌いながら演技のジェスチャーで「こっちへ、こっちへ」と呼び寄せられました。本番でのアクシデントを、お客様に悟られないようにギリギリのところでうまく立ち回る。「プロの世界ってすごいものだな」とつくづく感じたものです。
そうですね。アクシデントといえば、牧野さんと共演した演目で、牧野さんが入院されたときもありましたよね。
ありました。1995年2月の「愛の妙薬」ですよね。人生で一番大変だったと思います。あのときはインフルエンザが流行っていたのですが、まだ世間の認識として「風邪のちょっとひどいやつ」という感じで、降板にならなかったのです。今だったらすぐに対応でしょうけれど。あの時、ちょうど別の仕事も並行していたのですが、そちらの本番直前の夜中に熱が高くなり、病院に行ったらそのまま入院になったのです。点滴を打ってフラフラのまま現場に行き、当時総監督だった五十嵐喜芳先生に事情を説明したら「お前、歌いに来たんじゃないのか?歌わなかったら後悔するぞ?」と言われてハッとし、そのまま歌いました。次の日、まだ熱が高かったのですが「愛の妙薬」の楽屋に入り、ダブルキャストだった現藤原歌劇団総監督の折江忠道さんの顔をみたらやっぱり「とにかく第1幕ぐらい歌ってみるか」という気が起こり、フラフラのまま衣装をつけメイクをしました。「なんでこんな時にこの役(ベルコーレ)なんだ!」と思いながら威勢よく登場し、ひと騒ぎして汗をダーッとかいたら熱が下がって、第2幕はものすごく楽になったのです。
そういう事情だったのですか!あの時、実は私も、よりによってその「愛の妙薬」本番直前にインフルエンザにかかってしまったのです。しかも、声が出なくなるぐらいひどい症状で本当に焦りました。すぐ病院に行き安静にして必死にケアをしていたら、どうにか本番の日にか細い声が戻り、「いけるかもしれない」と本番に立って、奇跡的に歌えたんです。大変でしたね。今のご時世でもそうですが、体調管理ということがいかに歌手の大切な仕事の一環であるかと痛感します。
本当にそうですね。
ー様々な困難も乗り越えていらしたのですね。これからに向けて、何か思いはありますか?
そうですね、でも、お話したような数々のアクシデントに直面したとき、日本オペラ振興会の歌い手同士の仲の良さ、チームワークというものはすごく実感します。みんなで助け合って立て直そうとする、本当にいい現場なのです。これは受け継いでいきたい伝統ですね。
大切にしたいですね。私も、稽古場で一番大切に思っているのはムードメイキングです。特に若い歌い手は、現場で緊張して張り切りすぎてしまうこともあるじゃないですか。そういう時に「まぁまぁ」と肩を叩いて和ませてあげるのが、私たちの役目だと思っています。
そうですね。これまで藤原歌劇団でも日本オペラ協会でも様々な作品を歌わせていただきましたが、なかでも日本オペラの価値について考えることが多くなっています。お客様のなかに登場人物のご子孫がいらっしゃることもありますし、そもそも自分が日本人の歌手であるという意識は大きいものがあり、これからも歌い続けていくことが使命のようにすら感じています。あわせて、近頃フランスオペラの「人間の声」や音楽物語の「蜘蛛の糸」など、ひとりで深く掘り下げる「モノオペラ」に強く惹かれます。いつか実現の機会があればいいですね。
ー楽しみにしています。家田さん、牧野さん、お話ありがとうございました!