アーティスト インタビュー

松浦 健

様々な経験を経て、見せ場を熟知し、人物像への考察を深めたゴロー役で「蝶々夫人」の物語を際立たせたい。

Vol.46

高校まではスポーツばかりやっていたが、一念発起で音楽大学、オペラの道へ。学生生活の一筋縄ではいかないスタートも、イタリアでの波乱万丈なすべり出しも、すべてが楽しい思い出。尊敬する先生方の数々の大切な教え、影響を受けた出会いや芸術は、今でも自分に息づき、続いている。故・粟國安彦氏演出の「蝶々夫人」は、思い入れの強い大切な作品。先輩達からの教えを受け継ぎ、幾度も演じ、役づくりを深め続けてきた「ゴロー」をしっかりと務め、蝶々夫人の激動の生き様を際立たせたい。

今最も旬なアーティストのリアルな声や、話題の公演に関する臨場感あるエピソードなど、オペラがもっと楽しめること請け合いの情報をお届けするコーナー「CiaOpera!」。第46弾は、2021年6月25日(金)・26日(土)・27日(日)に日生劇場にて上演される、藤原歌劇団本公演「蝶々夫人」から。6月25日・27日にゴロー役でご出演の松浦健さんに、オペラ歌手として歩み始めた頃の貴重なお話や、ゴローという役、そして「蝶々夫人」にかける想いを伺いました。

スポーツ少年が、オペラ歌手・松浦健になるまで。

ー今回は、2021年6月25日・27日の「蝶々夫人」に、ゴロー役で出演される松浦健さんにお話を伺います。松浦さんといえば、これまでにお話を伺った歌い手の方々が、異口同音に「今回は、松浦さんがいらっしゃるので安心です」とおっしゃっていたことが大変印象的でした。歌い手としての様々なご経験が、そのような安心感につながっているのだと思いますが、今回はまず松浦さんのこれまでの歩みから伺いたいと思います。松浦さんは、幼い頃から歌の世界を目指していらしたのでしょうか?

いえいえ、私は元々ずっとスポーツをやっていたのです。軟式テニスで、大学受験では「スポーツ特待もとれる」といわれていました。けれど、自分自身ではそこまでうまくないと感じていまして。出身地の静岡県はスポーツが盛んな県として知られていて、静岡の大会で勝てば全国優勝と同じといわれていたのですが、そこでひと桁の順位ではなかったので、もっと上手い選手はたくさんいると思ったのです。それに、我が家は父が教育に厳しかったので、スポーツで大学に行かせてもらえそうになかった。ただ、中学で怪我をしたり病気をしたりとスポーツに心残りがあったので、やはり高校に入っても惹かれてしまう自分がいて、「大学は難しいかもなぁ」と思いながらも打ち込んでいました。

ーずっとアスリートだったのですね!意外でした!では、スポーツの代わりに音楽大学を選ばれた理由は何だったのでしょうか?

そうですね、高校が100%進学校だったので、周りはみんな大学受験をする。私は、受験のための勉強というのはしてこなかったのでどうしようかと考えているとき、ふと「フォークギターをやっているし、音楽大学はどうだろう」と浮かんだのです。そのことを打ち明けると、父は内心私が「やっぱり大学に行きたい」と言い出すのを待っていたようで、「ピアノを習いなさい」「ソルフェージュというものが必要らしい」など、いろいろとアドバイスをくれるようになりました。ただ私の高校は、音楽は選択授業として1年生の前期しかなかったので、ピアノも習ったことがなければソルフェージュという言葉も初耳でしたが、とにかく先生につきました。さすがに高校3年でいきなり始めたので、一発で合格ということにはなりませんでしたが、2年目に武蔵野音楽大学に入学できたのです。ただし昼間の「一部」ではなく、夜間の「二部」という方。そこからも、生活費のためにバイトをいくつもかけ持ちして、しばらくはなかなか上手くならなかったですね。歌も下手だったのですよ。

ー今の松浦さんを存じ上げていると、想像が難しいですね!

それが、本当なのです。でも最初から大学院には行きたかったし、当時教えてくださった先生にも「親御さんは、君が大学で学んで一端の存在になることが嬉しいと思うよ」と言われ、いろいろ考えました。本当は、大学に入ったはいいけれど、最初の頃はなんだか恥ずかしくて仕方なかったのです。いつもTシャツにジーンズ、下駄履きというような格好で。でも、ある時大学の先生の息子さんが、私にオペラのレコードを聴かせてくれたのです。どんな話か、どんな心情でどんな歌詞を歌っているのかという解説も交えて。その解説がとても上手だったこともありますが、歌を聴いたら涙が止まらなくなった。マリオ・デル・モナコ主演の「道化師」でした。「なんだ、これは!男が命をかけてやっても、ちっとも恥ずかしくないじゃないか」と感激し、そこから一気にオペラの世界に引き込まれたのです。当時は全く上の音が出なかったので自分でも周囲からもバリトンだと思われていたのですが、ある先生に「君、テノールになるかもね」と言われたことをきっかけに、「何が何でもテノールになるぞ」と必死に歌って声をどんどん変えていきましたし、大学3年生から「オペラコース」というコースが取れるようになるのですが、そのコースのための試験にも当時の二部の3年生として1人だけパスしました。

ー「道化師」が大きなきっかけになったのですね。それにしても、松浦さんのオペラへの道は、なんとも波乱万丈に始まったのですね!

そうですね。そのまま大学院を卒業してすぐ、大谷恭吾先生のお声がけで出演させていただいた「魔笛」で、大切なことをいろいろ教えていただいた経験は大きかった。今座右の銘に置いていることは、ほとんどその時教わったことですね。「どんなにステージが上がっても下座につきなさい」という言葉は、特に今でも可能な限り守っていることです。また、大谷先生は普通のストレートプレイをはじめ様々なジャンルの舞台監督もやっていらして、「観に来い」と声をかけていただき、それはもうたくさんの舞台を観る機会を得たのです。恵まれていましたね。辻村寿三郎さんの人形劇や、坂東玉三郎さんの「夕鶴」は今でも影響を受けている舞台といえます。あの表現力、美しさは驚きますよ!自分の舞台にも、その影響は生きていると思います。

大変なことも含め、全部が楽しい。そんなイタリア時代。

ーイタリアにも留学されていたのですよね。そのお話も、ぜひ伺いたいと思います。

イタリアに行ったのは、藤原歌劇団の常任理事に背中を押してもらったからです。でもそれも、最初は波乱があったのですよ。まず初っ端から、ローマの空港で出迎えてくれるはずの人が当日急に来られないということになってしまったのです。イタリア語は行ってから現地で習おうと思っていたので、全然喋れない状態のままひとりで空港に着いてしまった。たまたま飛行機の中でちょっと会話した日本人が「知り合いが現地で通訳をやっている」というので、お願いしてホテルだけとってもらったのですが、よく分からないままローマのターミナル駅であるテルミニ駅近くのホテルに決まった。夜の駅周辺というのはかなり危険で「地図なんか見て歩いていたら絶対に狙われる」と思い、途中のリムジンバスの中で道順や通りの名前を頭に叩き込み、危なそうな人々が何人もたむろしている駅を大急ぎでかいくぐってどうにか到着したのです。すると、今度はそのホテルがすごく高いという問題にぶつかった。お金はそんなに持っていませんし、朝ホテルの朝食としてついているパンと甘いジャム、カフェラッテを飲んだらもう1日の食事はそれだけ、という日が続きました。さすがにこれでは続かないと思い、たまたまイタリアに住んでいる歌の知人の名簿を持ってきていたので、その中から三浦克次さんに連絡して「こういうわけで、もうちょっと安い宿を探してもらえませんか」とお願いし、そこからようやくちょっとずつイタリア生活が変わっていきましたね。

ーなるほど、留学も大変な幕開けでしたね。

そうですね。故・粟國安彦先生の奥様にもお世話になりました。先生には、私自身日本にいた時から大変お世話になっていたので、ローマにいらした奥様にもご挨拶がしたかったのです。その際、話の流れで住む場所のことをご相談したら、良心的な下宿先を紹介してくださいました。その後、最初に助けてくれた三浦君は、帰る時に住んでいた部屋を引き継いで住めるようにもしてくれて。命の恩人ですね。歌の先生も、向こうでは誰につけばいいかわからなかったのですが、たまたま日本で教わっていた先生が「(私と同門だった)牧野正人君と一緒に、イタリアの先生に習いにローマに行くけど、来る?」と連絡をくださったので、「行きます!」と即答しました。そのイタリアの先生というのが、日本を発つ前にたまたまお名前を聞いた方だったという偶然もあってすぐにお願いしてレッスンをしていただいたら、どんどん良くなりました。大変な始まりでしたが、それがあったから頑張れたし、今思えば全部が楽しい思い出です。

ーこの大変さを「楽しかった」と言える松浦さん、素晴らしいです。イタリアで印象深かった思い出などがあればお話いただけますか?

思い出は、通っていた語学学校の一行で、島に行ったことですかね。行った先で何やらパーティーをやっていたのですが、それを見た語学学校の校長先生が私と、当時同じ学校に通っていた妻に「歌え、歌え」というのです。周りも「お、誰か歌手がいるのか?」と言い出すし、校長が「この人達は日本の有名な歌手だけれど、今私の学校に学びに来ている」と説明してしまったので歌わないわけにいかなくなり、二人で何曲か歌ったところ、聴衆の中にイタリアの上院議員がいて。演奏を気に入ってくれたのか、その後「うちに来い」といわれ、テレビに出ているような人達が集まる中で主賓にしてもらいました。別の時にも、「シチリアから甘い菓子を買ってきたから来い」と連絡をくれたので喜んで行ったのですが、「あの島とシチリアって、ちょっとお菓子を買いに行くような距離ではなかったような?」と不思議に思っていたら、なんと港に軍用ヘリが停まっているではないですか。「これに乗って買ってきたのですか?」と聞いたら「うん、これで買ってきた」と答えたのです。スケールが大きいですよね。そんな面白い出会いがいくつもありましたよ。あと、これは日本オペラ振興会のすごいところだなと思うのですが、ある時ロッシーニ・フェスティバルに派遣されたのです。すると、そこに藤原歌劇団のロッシーニ作品で共演したイタリア人歌手がいた。イタリアでも彼はスター歌手で、その時も主役として稽古をしていたのですが、私を見つけて「おーい!」と手を振るのです。現場にいる人は、みんな「このスターが手を振っているのは誰だ?」と振り返りますよね。なんだか鼻が高くて、まるで自分までスターになった気分でした。また、同じ歌手が出演するという本番が、帰る日と重なり観られなかったのですが、その演目の主役のテノールもソプラノも共演者で知り合いだったので、挨拶がてら事情を話したのです。すると、本当は一般公開されないゲネプロを「受付に親戚だって言っておくから観に来なよ」と言って招いてくれました。そういう面白いつながりが生まれるのは、日本オペラ振興会ならではですよね。入って良かったなと思う瞬間です。

ー本当に出会いに恵まれた滞在だったのですね。そのあと、日本に帰国されたのですね?

もっと長くいたいという思いもありましたが、お金も続かなかったですし、何より粟國先生が亡くなったという知らせがショックで帰ってくることに決めたのです。粟國先生には、ものすごく影響を受けました。イタリアに行く前に、昭和音大に来たのも粟國先生に呼んでいただいたからなのです。当時粟国先生がよく使う“粟國軍団”と呼ばれる一員に、光栄にも入れていただきました。帰国しても、しばらくは信じられませんでした。そのうち、ひょっこり現れるような気がして。

受け継いできた「ゴロー」で、《蝶々夫人》の“肝”を魅せる。

ー様々な経験を経て、国内外の多くの歌い手とも共演を重ねて来られたと思いますが、なかでもまもなく上演となる藤原歌劇団本公演「蝶々夫人」のゴロー役は、もう何度歌われているのですよね。

そうですね、もう本番の数だけでいったら、3桁は確実に達していると思います。

ーさすがです!それだけの回数をこなされていて、役づくりは毎回変わるものなのでしょうか?それとも、同じテーマを貫いていらっしゃるのでしょうか?

相手によってリアクションは全然変わりますから、結果的に表現としては毎回違うものになっていると思います。けれど、「蝶々夫人」におけるゴローの役割はある程度決まっていると思っていて、ひとつは気配りの人であること。周りで起きていることすべてに気付く人であり、自分のお客の一挙手一投足を常に見ていて「やばい」と思ったらすぐ行動する。そういう存在は、あのオペラにおいてゴローしかない、という意識でやっています。

ーなるほど!ゴローはそういう人物だという見解は、意外でした。

私の演じるゴローには2タイプありまして、ひとつは完全に「女衒」。悪く、悪く演じる。もうひとつは「幇間」つまり「太鼓持ち」で、自分のお客であるピンカートンがちょっと面白くないことを言っても、基本的にいちいち真に受けて顔に出すようなことはせず、どんどんと彼が満足するようなもてなしを繰り出していく。そのために、相手の挙動だけでなく周囲全体をするどく観察している。藤原歌劇団の公演では、主にこちらのタイプを演じます。そして、新たに自分の顧客となったお大臣・ヤマドリに「(お気に召した)蝶々さんを正妻にできるように取り計らいます」と約束して連れてきたのに、蝶々さんの一途な想いやシャープレスの諫言によって、いわば面目丸つぶれの状態になる。悪いやつだから怒る、のではなく、仕事を台無しにされた人間として怒って当然のシーンだと思って演じています。これは、ゴローという役を演じ始めたごくはじめの頃から受けた教えでもあります。ゴローは、演出によってガラッと変わる人物だと思いますね。

ーそうだったのですね。観る側として、ゴローという人物は単純に「悪者」として捉えがちなので、ひとりの人間としての解釈を聞いて新鮮です。本公演の演出は、もともと粟國安彦さんが手がけられたものだと思いますが、粟國さんの思いも表れた人物表現なのでしょうか?

残念なことに、粟國先生がこの演出を初演なさったのが、私がイタリアに留学していた時だったのです。ですので、私が帰ってきて藤原歌劇団の「蝶々夫人」でゴローを演じるようになった時にはすでに粟国先生は亡くなられていて、直接教わることはできなかったのですが、初演の際に演出助手をされていた松本重孝先生から教えていただいきました。あとは、尊敬する及川先生から受け継いだ役づくりでもありますね。

ーずっと大切に受け継がれてきた「ゴロー」なのですね。松浦さんの考える、「蝶々夫人」の見所はどちらでしょう?

やはり、なんといっても蝶々さんの生き様です。幸せな蝶々さんが、一転して不幸の底に落ちていく。15歳から始まって、18歳でその生涯を閉じてしまう。すごいスピードですよね。その激動の人生を引き立たせるために、周りの人物もゴローも存在すると思っています。先ほども申し上げたように、ゴローには大きくふたつ解釈があります。ひとつは、とにかく悪者らしく演じること。演出によっては、私もこちらで演じることもあります。ゴローが悪者であればあるほど、蝶々さんがかわいそうに見えるというのが、実際多くの演出における見解でもあります。もうひとつ、私が藤原歌劇団の公演で演じる際に選ぶのが太鼓持ちのゴロー。こちらは、たとえ面白くないことがあっても自分を抑えて一生懸命相手を立てたのに裏切られ、“仕事を阻害されたひとりの人間”として終盤で爆発する。その爆発度合いが強ければ強いほど、結果的に蝶々さんのかわいそうさが増すと考えられます。もしかすると、観ているお客様はさほど大きく違う印象は受けないかもしれませんが、内面ではそのように演じ分けています。

ーなるほど。お話を伺っていて、松浦さんはどこがオペラの“肝”なのか、そのためにご自身がやるべき表現もきちんと心得ていらっしゃる。だから、共演する皆さんが「松浦さんがいらっしゃるから安心です」とおっしゃるのだなと感じました。今回共演する方々は、以前のプロダクションと同じ方もいらっしゃるようですね?

そうですね。蝶々夫人役の小林厚子さんは、素晴らしいですよ!リリカルな美しい声をお持ちですし、「The オペラ」という王道な豊かさを感じさせてくれます。今、なかなかオペラらしいオペラを観る機会が持てないお客様も多いと思いますが、ぜひ小林さんの歌声を聴いていただきたいですね。私も、ご一緒できてとても嬉しいです。牧野正人さんも、若い頃先生が同じだったりして、ずいぶん長くご一緒していますね。「蝶々夫人」では、領事のシャープレスとしてとても泣かせる演技で魅せてくれます。彼の演技は、泣かせるのですよ。私ともよく共演している、やはりゴロー歌いの歌い手が、牧野さんが蝶々さんの幼い息子を抱き上げる演技を見て舞台袖で泣いていましたよ、次はゴローとシャープレスが喧嘩するシーンだというのに(笑)。スズキ役の鳥木弥生さんも、藤原歌劇団のエースですし。すごい方々がご一緒してくださるので、本当に楽しいですね。声も素晴らしいし、皆さん、イタリア語がちゃんとしている。海外に持っていっても恥ずかしくないですよ。日本オペラ振興会のオペラは、観るべき価値があると思います。

2019年藤原歌劇団公演「蝶々夫人」

ー完成度の高い表現力の結集、見逃せませんね。最後に、本公演への意気込みをお聞かせいただけますでしょうか?

意気込みは、ごくシンプルです。一生懸命きちんとやる。これに尽きますね。「すべてのヒントは音楽の中にある。楽譜を厚く見なさい」と、多くの偉大な音楽家が言っています。楽譜を一生懸命読み込めば、演技はついてくるものだと思うのです。歌詞もついているわけですし。殊に「蝶々夫人」は、本当にいろいろな思い入れがあって、言葉では語り尽くせない作品です。後輩たちにも、絶対に伝えていかなければならない作品だという使命を持っています。お客様にも、ぜひご覧いただきたいです。

ー様々なご経験と、幅広いご見識に裏打ちされた松浦さんのお話を伺った後ですと、ますますオペラが楽しみになります。お話、ありがとうございました。

聞いてみタイム♪ アーティストからアーティストへ質問リレー。家田紀子さんから、松浦健さんへ。

ー今回は、久しぶりに「聞いてみタイム♪」の復活です。歌い手として、歌い手に聞いてみたいあんな疑問、こんな質問。今回は、前回お話を伺った家田紀子さんからのご質問です。

初めてお目にかかったときから全くお変わりありませんが「若さの秘訣」は何ですか?

それは、むしろ家田さんにお聞きしたい(笑)!ただ、ひとつ考えられるのは、「蝶々夫人」のゴローのように同じ役を何回もやると、年々体力的に「まずい」と感じる瞬間があるのです。その不安を払拭するために、腹筋したり足を鍛えたりと運動するので、結果的にひとつ前のゴローより今回のゴローの方が動きやすかったりする。演じる役も同じなら、舞台も同じ場合もあるので、そこで前回よりグレードを落とすということはしたくないですよね。質を維持したいという思いは、ひとつのバロメーターになっているかもしれません。あと、学校です。目の前にいる人たちが、常におおよそ18歳から22歳ぐらいの若者たちなので、少なくとも気持ちの面で、私もずっと若くいられるということはすごく感じます。

2014年藤原歌劇団公演「蝶々夫人」
左から松浦健(ゴロー)、牧野正人(シャープレス)、清水知子(蝶々夫人)

ーご自身の探究心と、若い世代とのコミュニケーションで、表現者として変わらぬ若々しさを保ち続けられているのですね。お話ありがとうございました。

松浦 健

テノール/Tenor

藤原歌劇団 正団員 日本オペラ協会 正会員

出身:静岡県

武蔵野音楽大学卒業、同大学大学院修了。
「魔笛」タミーノで本格的にオペラデビューし、青山劇場「愛の妙薬」ネモリーノで成功を収めたのち渡伊。各地でコンサートに出演し、ヨーロッパ統一青少年会議に招かれ市長賞を受ける。
帰国後、藤原歌劇団にて「道化師」ペッペ、「ラ・トラヴィアータ」ガストン、「カルメン」レメンダード、「運命の力」マストロ・トラブーコ、「蝶々夫人」ゴロー、「東洋のイタリア女」(日本初演)リーラム、「愛の妙薬」ネモリーノ等、数多くの公演で活躍。日本オペラ協会には、「春琴抄」「修禅寺物語」「夕鶴」、ポーランド音楽祭“ワルシャワの秋”参加「袈裟と盛遠」、創立60周年記念公演「静と義経」に出演。
新国立劇場では、97年開場記念公演「建・TAKERU」を始め、「蝶々夫人」「カルメン」「ラインの黄金」「トゥーランドット」「忠臣蔵」「トスカ」等に出演。その他、愛知県芸術劇場「ルイーザ・ミラー」、びわ湖ホール「群盗」「アッティラ」、東京シティ・フィル「ジークフリート」をはじめ、海外でもドニゼッティ劇場「ブルスキーノ氏」、エジンバラ国際音楽祭「トゥーランドット」、モスクワでの「夕鶴」等に出演。「第九」「メサイア」、ヴェルディやモーツァルト「レクイエム」等のソロ、NHKニューイヤーオペラコンサート等の各種コンサートや、FMリサイタル等幅広く活躍。第24回ジロー・オペラ賞受賞。
昭和音楽大学講師。

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